また映画いろいろ

アイアンマン2』と『(500)日のサマー』と『マイ・ブルーベリー・ナイツ』を観たよ。最近の私の口癖は「胸キュン」らしい…とこれ書いた後に思った。ひょー。



アイアンマン2

ポッツ女史が可愛すぎて胸キュンです。なんでスタークみたいなバカ男と…(ぶつぶつ)

面白かったけど、私は前作の方が好きでした。罪のない面白さがあって。
前作まるまる今作のためのプロローグといっていい内容なんで、「こっからいよいよ本番」感があるし、もちろん内容も前作以上にてんこ盛りなんで見所は多いわけですが、始まって早々、政府に召喚されてアイアンスーツの提出を求められたトニー・スタークがそれを拒否した段階で「スターク、おまえバカだろ?」と現実的なツッコミを入れてしまったためにその後の展開をちょっとハスに構えて観てしまいました。とりたてて教訓的な内容を盛り込んでるとは思えないので、ごちゃごちゃ考えずにただ楽しめればいい映画だとは思いますが、リアルにこんなことが起きたら、映画のようなお気楽さは期待できない。
「アイアンスーツ」を例えば高性能ミサイルとかに置き換えて考えるとイメージしやすいと思うんだけど、民間の人間がそれを開発・保持し、のみならずその性能を誇示宣伝するような行動を取っているわけだから、それに対して政府が警告を発し提出を求めるのは当然のことだし、それを拒否なんかしたら大問題になるのは自明なわけで。殺傷能力のある武器を、その民間人であるところの保持者が「平和利用するから」なんて言ったところで何の意味もない。武器のあるところには必ず利権が生じ、それを巡っては国家レベル(っていうか世界規模)で物事が動くのは当然。アイアンスーツは人を殺せる能力を持っている点でいえば紛れもなく「武器」だし、現にそれがスタークの管理をすり抜けて他者に渡ってしまったことで騒動が起きているわけだから、本来トニー・スタークの罪は大きいと言える。スーツの提出を拒否した段階で、トニー・スタークは世界レベルの危険人物になったわけです。(彼の与り知らぬもう一枚の設計図の存在と、スーツを盗み出したのが「政府」であった点で、やんわりと彼の責任が回避されてますけど)
だから最後、スタークがなんか知らないけど勲章まで授与されて「とがった奴は扱いづらい」で片づけられちゃうあたり、この映画のお気楽さであり、組織VS個人となった場合に、圧倒的に個人びいきになってしまう、自由と権利の国アメリカの興味深い点なんじゃないかと思ったりしました。もうひとつの設計図の保持者であったイワン父であるロシア人科学者がスターク父と決別した理由が「金儲けに走ったためにスターク父に追放された」である、という設定なんかも、非常に分かりやすい善悪の構図ですね。イワン父には彼なりの思惑があったんじゃないかしら。スピンオフやればいいのに。(無理だろうな)

という具合にいろいろツッコみたい部分は多かったんですが、トニー・スタークの俗物っぷり健在なあたり(冒頭のEXPO開会式の馬鹿馬鹿しさたるや!)や、彼の幼稚さに父親の影があることと今回その存在を乗り越えることでひとつ主人公が成長を見せるあたりにストーリー展開の面白さがあったし、何よりモナコでイワンに襲われるクダリは、前作でのテロリストに襲撃されたときと打ってかわってきちんと相手に対峙できていたあたりヒーローとしての成長を垣間見られた思いで、やはり「バカ息子を見守る母目線」になっちゃったりして楽しかった。アイアンスーツって飛び立つときにぜんぜんかっこよくないのがなんか憎めなくていいです。



(500)日のサマー

「ああ、この気持ちなんかわかる…」という要素で構成された映画、という感じでした。観終えた直後はそうでもなかったんだけど、今更になってじわじわ効いてきた。サイトで予告編観ただけで胸キュンだ…
内容はほんとに他愛なくて、サマーというややエキセントリックな女の子を好きになった男の子(ん?「子」っていう年齢なのか?)トムの、恋の始まりから終わりまでを追った物語。追ったといっても順に辿るのではなく、500日間をシャッフルして見せていく。サマーと仲良くなって幸せの絶頂にいるトムから、すべてが上手くいかなくなって絶望のどん底にいるトムへという180度の転換を一瞬に見せられる。何があったのかと思うけど、実際何か決定的なきっかけや変化があったわけではなくて、ただゆるゆると2人の距離が離れていく。そしてそれが受け入れられないトムの焦燥。痛々しいけど可笑しくて、可笑しいけど切なくて、切ないほど愛おしくて、つまりきゅんきゅんしちゃうわけです。恋をした男の子はとてつもなく不器用で不安定でバカっぽい。(列車で偶然サマーに会ったときの動揺っぷり、その後の妄想っぷり) がんばれー。
トムの容姿がまた絵に描いたような平凡な文系男子という感じで(ひょろっとした痩せ型で身長も平均的、面長・タレ目・なで肩で特にハンサムでもない)、アメリカにもこういう俳優っているんだなーとへんなところに感心した。そんな平凡文系男子が突如街のみんなを巻き込んで踊るミュージカルシーン、これがまたたまらなく可愛いんだ。
トムの元を去って早々に別の男と結婚しちゃうサマーは、男から見るとまったく不可解でしょうが、あるときふっと降りてくる「この人とは一緒になれない」という直感めいたひらめき、そしてそのひらめきも直感なんかじゃなく、サマーがトムに感じ続けてきた違和感の積み重ねにすぎないであろう、そういう彼女の心の機微も、説明的にならずに丁寧に表現されてたんじゃないかと思います。たまらなくキュートで繊細な映画でした。



マイ・ブルーベリー・ナイツ

恋をした女の子もとてつもなく不器用で不安定でバカっぽい。思いがけずすごい良かった。やっぱウォン・カーウァイ好きだ。
ウォン・カーウァイが大好きで作品を観続けた結果、『花様年華』まで来て完全にウォン作品に食傷してしまって、この『マイ・ブルーベリー・ナイツ』公開時にはすっかり食指が動かなくなってしまっていたために見逃していたんだけども、こないだ久々に『ブエノスアイレス』を映画館で観たらやっぱり「あああウォン・カーウァイ!!」って舞い上がってしまった上、そういやジュード・ロウが出てたんだっけ…と思い出したので観る気になりました。このタイミングで観て良かったかも。公開時に観てたらやっぱり胸焼け起こして、決定的にウォン・カーウァイ作品が苦手になってたかも知れない…
内容はウォン作品として特に新味があるわけではなく、完全に『恋する惑星』『天使の涙』とあわせて三部作を構成できる感じでしたが(失恋から始まる物語、カフェ、鍵、警官、電話…)(むしろ前2作を、世界に通用しやすいようにアメリカに舞台を移して構成し直したと言ってもいいくらいな)、ウォン・カーウァイの描き出す人物たちは誰もみなたまらなく可愛らしくて愛おしい。ウォン作品において、電話してる男性は何であんなに可愛らしいのだろう。(『恋する惑星』のモウしかり、『ブエノ』のウィンとファイしかり、今回のジェレミーしかり。)必死だからかな。そして「手紙」と「電話」というアナログなアイテムがノスタルジックなムードを小粋に演出。
つーか、ジュード・ロウかっこいいっすね…
映像はウォン・カーウァイ的紋切型ではあるんだけども、深い青やぼんやりとした影に覆われた室内や湿った感じの夜の街角など(この人の手にかかるとニューヨークの街角も香港に見える・笑)がやっぱりぞくぞくするくらい綺麗だし*1、音楽もたまらないし、今後もし映画館の大画面で観られる機会があったら逃さず絶対観たいと思わせた。ラストシーンは胸キュンものだし、いい余韻の残る作品だったな。

*1:って、この作品の映像監督はクリストファー・ドイルじゃなかったのか…